人間の死とは・・・どんな状態で死亡と判定されるのか・・・

彼の望みどおりのセデーションを行ってから約3日間ー
毎日、何時旅立ってもおかしくはない状況の中で・・・
ずっと、ずっと彼の体に触れながら過ごした時間・・・

その4ヶ月前に・・肺炎を起こして危篤状態に陥り、3日3晩
眠らずに彼の手を握り祈り続けた時とは違った・・・
彼が自ら希望していた「苦しみからの解放」の選択肢だった
それは・・・「生への希望」ではなく「死に向かう選択」。

リアルタイムでの最初のグリーフワークだったのかもしれない・・
彼の肉体との永遠の別れ・・・
大好きだった手のぬくもり・・・
厳しくもあり、だけど温かく優しい眼差し・・・
その瞳を・・・もう開く事はないの?
3日間・・子供たちに囲まれ、それぞれの想い出と感謝に包まれ
そして・・・最期に大きな呼吸をひとつ残して・・彼は逝った・・・

ホスピスではよけいな機器類は何ひとつない・・・
お決まりの心電図モニターもつけたりはしないし・・・
スタッフも最小限の訪室しかしない・・・
吸引器も手作りの可愛いカバーがかけられている・・・
モルヒネとセデーションの点滴のみである・・・

そんな穏やかな環境の中で徐々に進む呼吸抑制・・・
そして末梢のチアノーゼ・・・
下顎呼吸・・・冷たくなっていく足先と紫色に変わる爪をさする子供
死の3徴候である、呼吸停止と心拍停止は・・
緩やかに全員で受け止めていった。
SPO2とBPが測定不能になった時点でナースコールを押した。
そして院長先生が瞳孔反射消失の確認を行った後、時間を告げた。

医療の場における死の判定・・・
心臓停止→心電図モニターがフラットに・・・
呼吸停止→自発呼吸なし・・・
瞳孔散大→対光反射なし・・・

個体の死は、心臓、肺、脳の3つの臓器が不可逆的にその機能を
停止・喪失した状態であるという考えに基づいている。

ただし、臓器提供の意思を提示している場合・・(リビングウィルや
ドナーカード)脳死が死と判定され、基準もまた違ってくる。

その他の死として尊厳死と安楽死など、死に方に関する問題や
臓器移植、生殖医療などの生き方に関する問題を内包しており
日本社会全体が取り組むべき重要な問題である為、社会の動向も
ふまえて理解しなければいけない・・・

リビングウィルの記事でも書いたのですが、ひとつは尊厳死・・・
尊厳死(death with dignity)とは、患者が「不治かつ末期」になった時、
自分の意思で延命治療をやめてもらい、安らかに人間らしい死を
とげることである(日本尊厳死協会)
尊厳死は、死ぬ権利の主張であり、個人の自己決定権に基づき
「回復の見込みのない不自然な生(延命措置による強制的な生)
よりも理に沿った自然な死を選ぶ」自己の死に向かっての1つの
積極的な生き方である。

安楽死(euthanasia)とは、第三者が苦痛を訴えている患者に同情して
その患者を「死なせる行為」である。
安楽死は、鎮痛技術が未発達なため、ターミナル期の苦痛から
逃れる方法が「死」しかなかった20世紀前半にできたもので、苦痛の
ない安楽な死を意味する。

現在、医師の作為による分類、(積極的安楽死、消極的安楽死)や
医療の意図による分類(直接的安楽死、間接的安楽死)などがある。

これらが倫理的に受け入れられるかどうかは、国や社会・文化に
よって異なる。

・・・彼の「死」は今で言うと「尊厳死」なのだとは思いますが・・・
ひと昔前ならば・・・「安楽死」に値するものだったんですね・・・

あらためて、今論議されている「延命治療に関するガイドライン」等・・
考えさせられてしまいました。

人生を生きるということ・・・

生と死は、1本の連続線上の対極にあるという見方や、表裏一体である
という見方や表裏一体であるという見方など、様々な捉え方がある・・・

しかし、生と死の関係をどのように捉えていても、人間がいかに死ぬかと
いうことを突き詰めていくと、いかに生きるかということを考えざるを得ない

人生をいかに生きるかということは、人間の成長、発達や人間観、死生観
などの価値観と深く関わっている。また、その価値観は十人十色である。

多様な価値観が認められる今日にあっても、人生の豊かさに不可欠な事
は愛情であることを肝に銘じておく

人間は、ただ生きている存在だけではなく、よりよく生きる存在であり、
変化する存在であり、成長し続ける存在でもある。

すなわち、人間は本来、主体的に自らの人生を生きる存在なのである。

ターミナル期にあっては、死への恐怖で閉ざされた心が、死を見据えて
そして、死を超えて生きつづける心へと変化していく

その過程で重要なことは、日常の営みの中で、生きることを大切にした
ケアを受ける事により、生きていることを実感する。生きていることの喜び
を感じるといった、自己存在を肯定できる体験をすることである。