ー最期のときにはー
最期のときには
誰かの手を握りながら死んでいきたい。
たとえ どんなに恵まれた人生でも
人は 最期には独りぼっちの小さな船で
死という大海に漕ぎださなければならない。
そのときに、誰かから愛され、
赦されていると 思えなければ
どこかへ向かって漕ぐ手にも力がはいらないであろう
−日野原重明ー
少し前に・・・出逢った、ある患者さんの旅立ちに
どうしても、どうしても哀しみが止まらずに
心がもがいていた数日間・・・
そんな時には・・・とにかく活字を読んでしまう。
言葉のカケラを
探し求めて・・・
拾い集めて・・・
時に 己に問う・・・
映し出しているものは 自分の心じゃないの?
小さな葛藤は いつだって、いくつだってある。
けれど、たどりつくトコロは いつも同じ「想い」・・・
最期のときには・・・
大切な人や・・家族に触れられて・・・光に融けて欲しいとー
愛されて・・・赦されて・・・還って欲しいとー
そうありたいな、と思うし
そうあってほしい、と願う・・・
日野原先生の「いのちの言葉」には
慈愛が溢れていて・・・
今回も・・・愛と赦しによって
心をキラキラ磨かれた気がします・・・
また、明日から新しいスタートライン
ゆっくり、愛を届けていきたいと思います。
私を驚かせたのね。
「通夜と式の準備があるから」・・・・
私は2歳前の息子が高熱を出していて、其処に行けなくて。義妹の子供達も、連れて行かずに・・・。義妹と、叔母だけの看取り・・・。それも、眺めているだけの・・・。二人とも義父の側に居たのに、どうして家に帰れるんだろうと、思って・・・。
義父が可哀想で・・・帰宅した義父にずっと、一人、明け方まで語りかけていたの。
それから、暫く時が流れ。四十九日の法要の後で、夫に告げた言葉。
【もし、次に誰か判らないけれど家族が最期を迎える時は、必ず、家族皆で、側に居て見送るからね。こんな寂しい旅立ちを、今後、私の目の黒い内は絶対にさせないから。家族の最期に側に居る事より大事な事なんて、無いのよ。】
夫は、忘れてしまっているかもいれないけれど。私は忘れない。
色んな理由で、側に居られない事って、あるかもしれない。急な事故とか、急な病気とか。でも、時が・・・其処にあるのならば、側で、身体に触れていてあげて欲しいよね。
それは、残される者の出来る、今生での最期の愛情だと、そう、想ってる。
そうして・・・病院で迎える最期ならば・・・家族が、命に寄り添えるような、病室であって欲しいと、心から願っています。